大人の旅行医学講座

区民公開講座 平成27年2月7日のまとめ

吉田まゆみ内科
吉田 眞弓

   現在、年間海外渡航者は、約1700 万人(国際観光振興協会)、その中で、旅行中に脳血管障害や心筋梗塞などの重病で入院加療を受けるものは年間700 人以上と推定されている。これらの疾患は、適切な初期治療を行えば回復可能な場合も少なくないが、訪問先の国の医療設備が整っている場合でも、言葉の問題や医療情報が不確実であるために、適切な高度医療の恩恵を享受できない場合もある。

 また、特に途上国の熱帯地域や衛生状態が十分に整っていない地域では、あまり経験のない疾患への暴露・感染の可能性や、非汚染地域へ感染症を持ち込むリスクもあり、特別な健康への配慮が必要になる。

 近年は障害を持つ人々や高齢者が積極的に海外へ出かける傾向にある。しかし、サポート体制が十分ではないため、旅行をあきらめるケースも多い。また、2020 年の東京オリンピック・パラリンピックを控え、日本訪問者の医療サポートニーズは増加すると予想され、日本国内での具体的なサポート体制を構築することも急務である。

 このように旅行医学は、感染症、熱帯医学、予防医学、救急医学、消化器病学、皮膚科学、環境医学などの医学的知識はもちろん、海外旅行先での地理的、社会学的知識も必要とされる。

〔1〕感染症と予防
  2007 年4 月~ 2012 年4 月の間、海外旅行後に横浜市民病院感染症外来を「発熱」「下痢」などの感染症を想定して受診した1,421 例の内訳を示す。(立川ら:図1)

 日本の地理的条件から、輸入感染症の内訳は、東南アジア、インド、インドネシア地域との関連が高く、アフリカ、中南米との関連は低かったが、頻度と重症度、有効な治療により治癒可能という点から、マラリアが最も重要である。

①旅行者下痢症
  発展途上国を訪れた旅行者の20 ~ 50%が罹患するといわれている。旅行地到着後、多くは2~ 3日以内に発症。下痢は通常3~ 5 日で改善するが、1%が入院を要し、5%が2 週間以上の慢性下痢をきたす。br>  原因は、毒素型大腸菌(ETEC)によるものが50 ~ 80%と多く、カンピロバクタ、サルモネラ、赤痢などが続く。
  旅行中の水や食べ物に注意するといった予防が最も重要で効果的である。万一、罹患した場合も、水分補給と整腸剤で改善するものがほとんどである。ニューキノロン1 回服用+ロぺミン2㎎ 服用で 水様下痢の期間が50.4 時間から20.9 時間に優位に短縮したとの報告がある。ただし、タイにおけるカンピロバクタはキノロン耐性が85%である。また、高熱、1日7回以上の水様下痢、粘血便を認める場合は、医療機関を受診する必要がある。

②マラリア
 マラリアは、2005 年のWHO UNICEFの報告によると世界では年間5 億人以上が感染し、100 万人以上が死亡している。毎年、先進国からの旅行者の2 万人以上がマラリアに感染しているといわれている(現地での治療者を含めると実数はもっと多い)。本邦でのマラリアの報告は、2000 年以降やや減少傾向にあるが、いまだ年間50 ~ 60 例の報告がある。マラリアは予防・治療薬があること、特に熱帯熱マラリアは一旦罹患すると重症化し、診断が遅れると容易に死亡に至る疾患であることから、輸入感染症として常に念頭に置いておくべき疾患である。
  マラリアの診断は、赤血球内のマラリア原虫の確認で可能であるが、現在は、簡易検査キットで診断できる(図2:キットは輸入。保健適応外。)。

 図2マラリア診断キット

 個人で実施できる予防は、強力な防虫スプレーの使用、長袖、長ズボン、帽子や首にタオルを巻くなどの蚊よけの対策、蚊帳の使用、マラリアを媒介する熱帯シマ蚊は夕方~夜間に活動することから、日が暮れたら極力外出を避ける等がある。
 サハラ以南アフリカ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、アマゾン川流域などのへ7 日以上(マラリアの潜伏期間が7 日)の予定で滞在する場合は、抗マラリア薬の予防投与の適応である。本邦では2001 年よりメフロキン(メファキン 久光製薬)が薬価収載された唯一のマラリア予防、治療薬である。

〔2〕高山病
 海抜2500 ~ 3000 m以上の高度への旅行は、高山病の危険がある。国内でも富士山や穂高岳など3000 m以上の山への登山で高山病の報告がある。海外では、ヒマラヤトレッキング、ペルーのマチュピチュ、チベット、ネパールなどへの旅行は注意が必要。
 頭痛、嘔気、嘔吐など二日酔いに似た症状(山酔い)がでるが、症状が出現したらそれ以上高いところへは上らない、速やかに下山することが大切。症状が進行すると高地脳浮腫、高地肺水腫へと悪化し、死に至ることもある。保健適応はないが、ダイアモックスが高山病の治療薬、予防薬である。

〔3〕慢性疾患治療中の方と旅行保険
 高血圧、脂質代謝異常、糖尿病など慢性疾患で服薬治療中の場合、旅行予定期間+7日分(天候悪化等で旅程が延長する可能性あり)の処方薬を持参する。海外旅行の場合は、預入荷物が届かないケースも多々あるため、必ず手荷物として持参する。
 海外で突然の疾病や持病の悪化、事故などで救急入院治療した場合、想像以上に高額な医療費を請求されることが多い。入院や治療費に数百万~数千万、また、日本から家族がかけつける、看護師が付き添い特別機で帰国する場合の費用も高額である。重病でチャータージェット等を利用するとその費用は1000 万円以上にもなる。クルーズの場合、船内での治療も原則全額自費、重病の場合、最寄りの寄港地の医療施設に搬送となる。クレジットカード付帯の旅行保険ではカバーしきれない場合もあるので注意が必要である。

〔4〕空の旅
1)航空機の機内環境(図3)

 図3 機内と機外の環境

 巡航高度30000 フィート(10000m)で航行中の機内は、0.8 気圧に加圧されている。これは海抜8000 フィート(約2500m)に相当し、一般人にとって高山病の症状を発症せずに過ごせる高度である。機体の腐食の問題があり、加湿ができず、湿度は20%以下、サハラ砂漠と同等の乾燥した状態である。また、空気の性状は、想像よりはるかに清浄で、2~3分ごとに完全に入れ替わり、再利用された空気もHEPAフィルターを通すことにより、微生物のエアゾルは他の公共機関よりはるかに少ない。

2)航空機の機内環境が健康に及ぼす影響として、
① 低酸素分圧 既存の疾病の悪化、つまり呼吸器・心血管疾患の悪化、中〜高等度の貧血がある場合 に低酸素症をきたす恐れがある。COPDや最近起こった心筋梗塞、不安定型狭心症などの重篤な疾患のある人では、酸素解離曲線のわずかな変化でも重篤な心不全や呼吸不全につながる可能性がある。
② 気圧の変化 航空性中耳炎、副鼻腔炎、航空性腹痛、歯痛、ダイビング直後の搭乗による減圧症の発症などがある。
③ 低湿度 飛行中の航空機内の湿度は20%程度と乾燥しており、脱水、粘膜や皮膚の乾燥、角膜の損傷等が発生する。
④ 揺れ 空酔い、外傷
⑤ 長時間の座位 深部静脈血栓症(ロングフライト血栓症、エコノミークラス症候群)

3)飛行機に搭乗できないケース(図4)

 図4 飛行機に搭乗できないケース

 ・ 感染症 機内の空気は清浄に保たれているとはいえ、長時間の密室空間の移動であり、飛沫感染、空気感染をするすべての感染症で活動期の場合は搭乗不可。
 ・ フライト中に重症化する可能性の高い人 循環器・呼吸器の重大な疾患を有する人、急性の貧血等は、酸素分圧の低下により病状の悪化の恐れがある。また、胸腹部・眼内手術術後の方は、気圧の低下により体内の空気が膨張するため、術後一定期間は搭乗不可。
 ・ 妊娠36 週以降の妊婦 正常な妊娠であれば支障はないが、妊娠36 週以降では何の兆候もなく突然の出産のリスクがあるため搭乗できない。
 ・ 精神疾患 フライト中に急変し、自傷他傷のそれがある場合。
有病者は、担当医もしくは医療搬送を担当する医師が記入した航空会社提出用の診断書を提出し、航空会社担当部からの許可がある場合は搭乗可能である。また、車いすや機内ストレッチャーの使用、機内での酸素吸入や出発時や到着時の救急車の利用などの対応が必要な場合、専用窓口に相談するとよい。(JAL:プライオリティゲストサービス、ANA:スカイアシスト)

4)機内急病人発生と対策
  機内急病人発生率は 乗客100 万人あたり 国際線で15.3 人、国内線で3.5 人
  1000 フライトあたり 国際線で 3.9 人 国内線で0.8 人
内訳は 失神・意識障害 32%、小外傷 14%、腹痛嘔吐などの胃腸障害24%と比較的軽症のものも多いが、心疾患 7%と重大な疾患も少なくない。
わが国では、航空機内に救急箱、簡易薬品セット、AEDを搭載している。また、救急患者が発生し、当該機に乗り合わせた医師が用いるための救急医薬品及び医療用用具も搭載している。(図5)

 図5 ドクターズキット(全日空)

〔5〕船の旅
 ジェット機で遠距離を短い時間で移動する旅行が主流とは言え、この2~ 30 年間で世界のクルーズ客は10倍に増加し、年間約1000 万人がクルーズを楽しんでいる。
 クルーズ船上で発生する疾病の種類は陸上で発症する疾病とほぼ同様である。ちがいは、船上では人口密度が非常に高いこと(クルーズでは、いろいろな寄港地から他国籍の乗客を受け入れるため、インフルエンザ、ノロウイルス、レジオネラの集団発生の報告が散見されるが、わが国での集団発生の報告はない)、年齢層がシルバー世代中心と比較的高いことがあげられる。
 2002 年から5年間の飛鳥のグランドクルーズ(約40 日)、ワールドクルーズ(約100 日)における解析を示す。(図6・図7)

 図6 長期クルーズの集計

 図7

 上気道炎・肺炎などの呼吸器疾患、消化器疾患などいわゆるコモンディジーズが全体の約40%であった。皮膚疾患は靴を履いている時間が多いためか、足白癬が多く見られた。整形外科疾患とあるのは、乗船前からあった、変形性脊椎症や膝関節症などの悪化により受診したもので、外傷は船内で受症したものである。この中には大腿骨頚部骨折や上腕骨骨折など旅行継続が困難となり途中下船した例もある。船内のドアなどに指を挟まれたことによる指骨骨折がないクルーズはないというほどしばしばみられる。また、歯科に係るトラブルも事前に治療設備がないとインフォメーションしているにも関わらずしばしば遭遇する。持病の悪化による受診は比較的少なく、定期的な経過観察のための受診がほとんどであった。

 血栓症は、下肢静脈血栓症が23 例、脳血栓症が4例であった。静脈血栓症は、船内に限ればまれであるが、寄港地でのバスや列車などを長時間利用するツアーが危険因子であるという。
 ジェット機での移動と異なり、時差による健康障害は軽微であるが、日中は寄港地に停泊、上陸し観光ツアー、夜は移動中の船内で様々なプログラムを楽しむため、思った以上に疲労が蓄積し体調を崩しやすいなどの注意が必要である。

●長期クルーズに参加する場合の注意点は
 ①疾病・傷害保険に加入する
  船内で受ける医療は、基本的に自由診療であり、船内で対応できない疾病は、寄港地で医療を受けるとになる。
 ②事前の健康アンケートは詳細に記入する
 ③緊急の連絡先を確保する
  途中下船の判断、下船後の救護のために数か所確保
 ④持病のある乗客は
  1)主治医からの情報提供書を準備する
  2)常備薬は クルーズ期間+ 1~2週間分を持参する
  3)船内で可能な医療行為を確認する
 ⑤歯科治療はできないので済ませておくこと
 ⑥義歯、メガネなどのスペアを用意すること
 ⑦クルーズ中は、心身に無理のないスケジュールで楽しむことを心掛ける。 

まとめ
 旅行は余裕をもって計画し、特に1か月以上の長期旅行の場合は、予防接種のための時間も考慮し3~4 週間前にはかかりつけ医に相談する。
  ①予防接種の計画と実施。
  ②慢性疾患罹患者は、旅行期間+αの内服薬を処方してもらう。
  ③必要に応じて、診療情報提供書の準備。
  ④マラリア・高山病予防などの相談や予防薬の処方。
 旅行先の感染症健康情報、予防接種等は、厚生労働省検疫課のFORTH等のサイトを参考にする。外務省のサイトでも治安や医療事情などの安全情報の確認ができる。
 海外でのトラブルは疾病、交通事故、爆発災害などに巻き込まれるものが多く、医療事情、言葉の問題、想像以上に高額な医療費の請求など旅行者だけでは対処できないことも多い。家族が現地にかけつけるときの援助費用や、日本に搬送するときの移送料手配など困難な問題も多い。クレジットカード付帯の保険ではカバーできない事項もあるため、事前に確認しておくことが大切である。
 今回の発表にあたり、資料提供ならびにアドバイスをいただいた、JAL 健康管理室牧信子医師、元ANA 健康管理室五味秀穂医師、元日本郵船クルーズ吉田二教医師、商船三井蓮村哲医師に深甚なる感謝の意を表します。

〈参考書籍〉
矢崎義雄総編集(2013)『朝倉内科学』朝倉書店
E.C.Jog(2012)『トラベル・アンド・トロピカル・メディシン・マニュアル』
(株)メディカル・サイエンス・インターナショナル
日本旅行医学会雑誌
篠塚規(2009)『旅行医学質問箱』メディカル・ビュー社
海老沢功(1997)『旅行医学』日本維持新報社