当医師会の沿革

江東区医師会の発足

平成10年4月1日 各50有余年の歴史を持つ城東医師会と深川医師会が「融和」と「結束」と「発展」のもとに合併し、社団法人江東区医師会が発足しました。会員数は、城東A会員127名、B会員36名の計163名、深川A会員110名、B会員40名(会員2名)の計152名で総会員数A会員237名、B会員76名(会員2名)の合計315名という、都下でも中規模以上の医師会であります。
平成10年4月25日 深川地区を白河・東陽・富岡と城東地区を亀戸・大島・砂町の各3地区に分けて、定款に従い臨時総会にて新進気鋭の新役員が選出され、会長1名、副会長2名、理事15名が執行部としてその任に当り、さらに会長の諮問委員会である評議員会の委員を各地区より選出し、地区の取りまとめ役として地区部長的な立場で会員の融和と結束を図って頂き、執行部との意思精通に尽力いただいております。城東医師会及び深川医師会の歩みを書き残すことは、単に記録ではなくノスタルジックな感傷でもなく、幾多の諸先輩の汗と涙と努力の結晶として築き上げられた両医師会の輝かしい伝統を、これからの江東区医師会の益々の発展の礎にさせて頂きたいとの気持ちであります。

深川医師会の沿革(深川医師会50年の歩みより)

大正10年 法令によって深川区医師会(会長 小板久馬吉)が発足しました。
昭和18年7月 東京に都制が敷かれて、東京府は東京都となり、それまでの深川区と城東区が統合されて江東区となりましたが、両医師会は合併せず、それぞれ東京都医師会深川支部、同城東支部となって、戦時下の医療に従事しました。
昭和22年10月 社団法人深川医師会(会長 飯谷虎雄)が設立され、発足時の会員数は40名前後で、固有の医師会事務所はなく、当時門前仲町にあった職業安定所の2階に借家住まいをしていました。
昭和34年12月 国保が実施されました。
昭和37年4月 深川地区の戦後の復興に伴って会員も次第に増加し、第2代福城勝会長のもと、会員念願の医師会館が三好2-14-7に設立され、会員数はすでに140名でありました。
昭和40年 救急医療問題が検討され、救急医療機関の整備が地区医師会の大きな課題となりました。さらに従来地区保健所が主体であった予防接種業務が、区から医師会に全面的に委託されて、会の公衆衛生活動の中核的事業となりました。会務も次第に増大し、医師会は親睦会的な団体から、公益法人としての対社会的な責任を持つ団体へと変貌していきました。
昭和48年5月 臨時総会において従来の定款を抜本的に改正した新定款が可決され、その後、数箇所の細部の変更はありましたが、大綱は、城東医師会との合併まで順守された定款となっておりました。新定款により従来慣習的な指名制であった役員の選出は、全て立候補による選挙となり、会長に佐々木隆先生、副会長に長屋信美先生(新定款により副会長1名)、以下理事11名、監事2名がすべて立候補による選挙で選出されました。また、新定款で創設された地区および組の制度によって、その代表者で構成する評議員会が発足し、理事会と車の両輪として会を支える組織網が完成し、会の災害時出動体制編成の基礎ともなりました。
昭和51年10月16日 帝国ホテルにおいて深川医師会設立30周年記念式典を挙行しました。
昭和56年3月 福井光寿会長はその政治力と大きな構想力で、江東区健康センター設立等の区の公衆衛生事業に積極的に参画、持論であったこれまでの「待つ医療」から「出向く医療」への変換の重要性を唱え、区と折衝して、後に会の大きな事業になる訪問看護事業の基礎作りや、江東区難病検診事業を開始しました。
 その後、福井会長の都医師会への転出を受けて、木田敦先生が会長に就任し、医師会館の建設に専念しました。
昭和61年7月 医師会館の建設に着工しました。
昭和62年3月 医師会館が完成しました。
昭和62年3月 前田昭郎先生が会長に就任しました。
平成2年4月 堅実な会の運営をモットーに、医師会会員費の軽減を行いました。
平成3年3月 堅実な会の運営をモットーに、医師会会員費の軽減を行いました。
平成3年3月 深川医師会最後の会長に浅川佳佑先生が就任し、江東区民を対象にしたミニドック等、検診事業がますます増加して、訪問看護に便利な「病診連携カード」も作成しました。
平成8年4月 江東区総合福祉センター内に、城東医師会と共同運営の「江東区医師会立ナースステーション」を設立しました。
 ナースステーションの設立、東京都医師会難病検診事業、さらには深川医師会管内に併設の「江東区地域産業保健センター」等、あい次ぐ両医師会の共同事業の増加は、両医師会の役員間に一区一医師会の優位性を痛感せしめました。さらに、高齢化対策として、平成12年度から開始している訪問看護制度に対応するためには、より大きいマンパワーの整備が必要であることなどによって、小さな二つの組織より大きな一つの組織がベターであることが認識されてきました。
平成8年7月 合併検討委員会が発足しました。
平成9年3月19日 定例総会において、平成10年3月31日に、解散した城東医師会と合併し、平成10年4月1日をもって、深川医師会は名称を変更し、江東区医師会としてスタートすることが決議されました。
平成9年9月30日 臨時総会において、江東区医師会定款および定款施行規則が上程され承認されました。

城東医師会の沿革(城医春秋 第58号より)

昭和7年10月1日 南葛飾郡が東京都に編入され、城東区が誕生すると共に現医師会の前身である城東区医師会(会長 岡 照男)が発足しました。
昭和18年1月 東京府医師会(18年7月から東京都)の城東支部(支部長 林 新吾)となりました。
昭和22年10月3日 社団法人城東医師会(会長 猪口貞雄)が設立されました。会員数は33名。
  当時GHQには一区一医師会という方針があり、城東・深川が合併して一医師会を作るように強い要請がありましたが、断ったという経緯があります。
  その後、第二代 冠木栄吉、第三代 津田忠夫、第四代 蕨 彰、第五代 岡節男、第六代 山崎 衞、第七代 三浦輝雄、第八代 若月 透 と歴代会長が医師会の発展に努力され、城東医師会は一貫して地域医療という大きなテーマを掲げて大きく躍進してまいりました。
昭和43年12月 医師会館が竣工して城東医師会の基礎が確立されました。
昭和46年7月 保険医総辞退という大波乱がありましたが、その経緯は城医春秋(昭和44年6月 創刊)の第6号に生々しく記録されています。
昭和52年12月 城東医師会三十周年記念式典および会館増築祝賀会が蕨会長のもとで盛大に挙行されました。
昭和53年2月 城東医師会三十周年記念式典および会館増築祝賀会が蕨会長のもとで盛大に挙行されました。
昭和57年9月 「城東医師会三十五年のあゆみ」が刊行されました。
 このように医師会の創世記には社会も戦後の混乱期にあり、幾多の困難がある中で社団法人設立、会館建築等先人の計り知れない努力をもって現在の城東医師会が作り上げられてきました。
その後、我国は高度成長期に入りまして社会全般が活況を呈し、医業経営も比較的楽な時代がありました。
しかしそれも束の間、バブル崩壊後の経済悪化を背景に、少子、高齢化が急速に進展するなかで、21世紀に向けて我国の社会、経済は大きな転換期を迎えており、その中で医療も大きな変革をせまられてきております。
しかしながら、急速な高齢化の推移と医療の高度化等に伴う医療費の増大と保険財政の悪化の中で、医療保険改革、老人保険制度の創設、介護保険の導入等の新しい試作が発表されますが、21世紀に向けての抜本的な医療制度改革の基本方針が見えてこないのが現状であります。
このような状況下で合併への気運が高まりまして、医療の一大変革期に当り一区一医師会として強力な体制を作り、行政との緊密な連携のもとに実際的で効率の良い地域医療、在宅医療を築き上げるためにも医師会の合併を推進することになりました。
平成9年3月29日 定例総会において、合併のための城東医師会解散決議が満場一致で承認可決されました。